薩摩和菓子の考察記録

薩摩和菓子(@satsumawagashi)が考察したことを置いておく場所です。

TRPGで『ぼっち・ざ・ろっく!』や『ボヘミアン・ラプソディ』を再現する3つの方法

皆さんはTRPGで『ぼっち・ざ・ろっく!』や『ボヘミアン・ラプソディ』を再現したいと思ったことはありますでしょうか?

私はあります。

TRPGを通じて『バンドリ』も『ささやくように恋を唄う』も『スクール・オブ・ロック』も布教したいと思うことが山程あります。

バンドものシナリオを書く人が増えてほしいので、それらの夢を叶える手段をこれから3つ紹介します。

ここでTRPGに詳しい諸氏は思うことでしょう。

「3つ」だって? 「たったひとつの冴えたやりかた」では? 我々には『青春バンドTRPG ストラトシャウト』があるじゃないか?と。

たしかに『ストラトシャウト』はバンドものシナリオ専用である唯一の商業TRPGです。制作は冒険企画社、システムもTRPGプレイヤーにはおなじみのサイコロ・フィクション。バンドものシナリオを書くにあたって『ストラトシャウト』を超える選択肢など一見なさそうです。

しかしながら私は『ストラトシャウト』で『ぼっち・ざ・ろっく!』や『ボヘミアン・ラプソディ』を再現するにあたって根本的な問題にぶち当たりました。

一言で要約すると、「『ストラトシャウト』はバンドものの中でも特殊なストーリー類型の再現に特化したシステムだ」ということです。

『青春バンドTRPG ストラトシャウト』で再現できるストーリー類型と、『ぼっち・ざ・ろっく!』や『ボヘミアン・ラプソディ』のストーリー

ここで『ストラトシャウト』のシナリオ構造を説明するために、公式のシナリオシートを見てみましょう。

ストラトシャウトシナリオシート

https://bouken.jp/pd/st/pdf/ss_scenario_sheet.pdf

「シナリオ名」の次、左上の一番目立つところに「ターゲット」とあり、その下に「シガラミ状況」と続いていますよね。

ストラトシャウト』は「『接近シーン』で『ターゲット』の『シガラミ』を『公開状態』にし、『ライブフェイズ』では『シガラミ』の妨害を受けながらも『ターゲット』の『DP』(Distance Pointの略。PCたちとターゲットの間の心の距離)をなくす」というシナリオがメインのゲームです。ライブへの出演や演奏についての障害は「サブシナリオ」に分類されています。

そしてこの「ターゲット」は「PCがライブフェイズで歌を届ける相手であり、メインシナリオの中心的なNPCです。PCのうち誰か一人以上の知り合いです」とルールブックp.193に記載されています。

さて、『ぼっち・ざ・ろっく!』(アニメ)や『ボヘミアン・ラプソディ』に、主人公たちがライブで歌を届けたい特定の知り合いは出てきたでしょうか? ライブが成功することで主人公たち以外の特定人物の悩みが解消される描写はありましたでしょうか?

なかったはずです。(『ぼっち・ざ・ろっく!』第5巻「特別編 星に手向けるあいの花」については、あとで説明します)

『ぼっち・ざ・ろっく!』(アニメ)や『ボヘミアン・ラプソディ』をバンドものとして傑作たらしめているのは、「バンドメンバーや支援者の結束」「高品質な楽曲や映像」「観客の熱狂」であり、特定の観客の人生を変える描写ではありません。

そして『ぼっち・ざ・ろっく!』(アニメ)や『ボヘミアン・ラプソディ』は例外ではありません。

バンドもの作品のストーリー類型

私が愛聴している「ゆる言語学ラジオ」の食レポシリーズにて、音楽漫画で音楽を聴かせる手法として、

  • BECK』は「観客の熱狂」
  • BLUE GIANT』は「聞いた人の人生が変わる」
  • 『日々ロック』は「文字と構図」

と例示していました。

yurugengo.mtakagishi.com

この分類は「文字と構図」を「高品質な楽曲や映像」に置き換えれば映像作品にも応用できるでしょう。

つまり、音楽を題材とする映像作品で音楽の力を演出する方法で、

  • アーティストたちのパフォーマンスに焦点を当てるのが「高品質な楽曲や映像」
  • アーティストたちが受ける承認や達成感に焦点を当てるのが「観客の熱狂」
  • アーティストたちのライブを見た個人に焦点を当てるのが「聞いた人の人生が変わる」

というように、送り手と受け手の間のどの時点に焦点を置くかの違いで分類できます。*1

そして、「高品質な楽曲や映像」「観客の熱狂」「聞いた人の人生が変わる」の中で、「聞いた人の人生が変わる」だけは少数派、または、作劇上のほかの目的を実現するために利用されることが大半です。

なぜ少数派かと言うと、ライブの直後はライブ結果に対する主人公たちのリアクションを描きたいからです。そのリアクションが読者の予想通りだったら「感情移入」、予想外だったら「面白さ」に貢献するため、どちらが目的にせよ、他のものを描く理由がないからです。*2

また「作劇上のほかの目的」も一言で要約できます。「音楽活動をする決意」をさせることです。

バンドものですと、「既存ユニットが結束する」ならライブをしたユニットが結束してどうなったかを描けますし、「新しいユニットを結成する」なら物語の主役を自然にバトンタッチできます。*3*4*5

たとえば、『バンドリ』3期の中盤はPoppin'Partyではなくロック加入後のRaise A Suilenが主役になりますし、『ぼっち・ざ・ろっく!』第5巻「特別編 星に手向けるあいの花」では主役が伊地知星歌のバンドから伊地知虹夏のバンドへ引き継がれます。

ストラトシャウト』のターゲットには「音楽活動をする決意」をさせよう

以上の議論から、『ストラトシャウト』での再現に適した、かつ、バンドもので主流の物語類型は、「『ターゲット』に『音楽活動をする決意』をさせる」です。

この物語類型の利点は「いかにもバンドものっぽい」こと以外に、もう一つあります。

「その『ターゲット』が始めた音楽活動」として、歌詞シートに記載した曲とは別の曲を流すことで、1回のセッションで2つの曲を布教することができるのです。いわゆる「アンサーソング」というわけです。

  • Roselia「BRAVE JEWEL」に対するアンサーとしてのRaise A Suilen「R・I・O・T」
  • Poppin'Party「Step×Step!」に対するアンサーとしてのRaise A Suilen「EXPOSE ‘Burn out!!!’」
  • リヤン・ド・ファミユ「大切がきこえる(双龍島アレンジ)」に対するアンサーとしてのDragon≒Nuts「サクラサクミライコイユメ

どうでしょうか?

「合法的に推し曲を布教できるTRPG」こと『ストラトシャウト』の特徴を最大限に活かしたシナリオにならないでしょうか?

TRPGで『ぼっち・ざ・ろっく!』や『ボヘミアン・ラプソディ』を再現する3つの方法

さて、そもそもの議論の発端は「TRPGで『ぼっち・ざ・ろっく!』や『ボヘミアン・ラプソディ』を再現する方法」でした。

PCたちがライブで歌を届けたい特定の知り合いがいなくてもシナリオを書ける、作中で戦わずにライブをするだけで盛り上がるシステムなんてあるのでしょうか?

ここからはそれらを3種類提示します。

戦闘のないシステム

戦闘がなくてもセッションを盛り上げられるシステムです。

戦闘ルールがなくても、通常の判定ルールを使い、達成困難な目標値を設定することでクライマックスを演出できます。

戦闘でNPC以外と戦えるシステム

戦闘ルールでNPCではなく無機物や概念的なものとも戦えるシステムです。

エネミーとして「東京ドームの魔物」「アウェイ感」「観客の不調和」などを設定した戦闘でクライマックスを演出できます。

  • 『マモノスクランブル』
  • 『常夜国騎士譚RPG ドラクルージュ』
  • 魔法学園RPG ハーベスト』(サプリ「フロントライン・ファイターズ」使用

satsumawagashi.hatenablog.jp

harvestrpg.com

ランダムでアクシデントが発生するシステム

中盤にランダムで発生するアクシデントにどう対処するかを主眼としたシステムです。

特に『駆け出しアイドルRPG ビギニングアイドル』は基本ルールブックp.210で「バンドアイドル」をサポートしていたり、同p.208には「バンドアイドル仕事表」があったりするため、公式のままでもバンドものシナリオを描けます。

  • 『世界救済社畜TRPG ネバー・レイト・ナイターズ』
  • 『駆け出しアイドルRPG ビギニングアイドル』

結論

『青春バンドTRPG ストラトシャウト』のシナリオで「『ターゲット』に『音楽活動をする決意』をさせる」と、「いかにもバンドものっぽい」だけでなく、1回のセッションで2つの曲を布教することができます。

『ぼっち・ざ・ろっく!』や『ボヘミアン・ラプソディ』のような、「聞いた人の人生を変える」訳ではないシナリオを書きたい場合は、

  • 戦闘のないシステム
  • 戦闘でNPC以外と戦えるシステム
  • ランダムでアクシデントが発生するシステム

を使うことで、ライブをクライマックスにしつつセッションを盛り上げられます。

それでは良きTRPGライフを!

今後の課題

バンドものでは音楽性その他の違いによるすれ違いが発生しがちなのですが、PC同士を死なない程度にすれ違わせる、ましてやそれをシナリオのメインにするのはTRPGでは難しいです。

「公式で秘匿ハンドアウトPvPをサポートしている」「バンドマンのPCを作れる」を満たすシステムとなると『ストリテラ オモテとウラのRPG』や『マルチジャンル・ホラーRPG インセイン』が該当します。

しかしながら、具体的にどのようなシナリオなら楽しく喧嘩できるのか思いつかないです。*6

「殺伐百合」は私の好物なので、もしこの問題を解決できたら教えてくれると助かります。

TRPGシナリオ書きたいサーバー Advent Calendar 2023

この記事はDiscordサーバー「シナリオ書きたい」の2023年アドベントカレンダーの一環として執筆いたしました。

アドベントカレンダーとは、12月1日からクリスマスまで、いろいろな人がリレー形式で、テーマに沿った記事を公開していくお祭りカレンダーです。

TRPGシナリオ・システム・ソロジャーナリングRPGのいずれかに興味のある方は以下のリンクからほかの方の記事ものぞいてみてください。

adventar.org

 

*1:倫理学における「功利主義」と「カント倫理学」の対立が「帰結主義」と「非帰結主義」の対立に言い換えられるのに似ていますね

*2:音楽漫画の中でも『BLUE GIANT』が音楽を聴かせる手法として「聞いた人の人生が変わる」を採用しているのは、彼らが演奏するのは歌ものではないジャズだから、

  1. 歌詞やレタリングで演出できない
  2. コール&レスポンスもできない
  3. リズムが変則的だから観客が体を揺らしにくい

という消去法的なものではないかと推測します。

*3:『バンドリ』シリーズはバンドアニメでは比較的「聞いた人の人生が変わる」を多用しますが、人生が変わった結果は「既存ユニットが結束する」「新しいユニットを結成する」の2つに集約されます。たとえば、「既存ユニットが結束する」は2期11話(Poppin'Party「Returns」)やMyGo1期10話(MyGo!!!!!「詩超絆」)、「新しいユニットを結成する」は3期3話(Poppin'Party「Step×Step!」)が該当します。

*4:バンドものはパート担当の都合上、メンバーが欠けたり増えたりするとライブ自体が難しくなるため、「ユニットのメンバーが増える」は『けいおん!』のあずにゃん加入ぐらいしか例がないですが、アイドルものだとライブに人数の成約がないため多用されます。たとえば『ラブライブ』シリーズでは、メンバー集めのために少人数でライブをするのが序盤の通例となっています。

*5:放送開始までアイドルものであることを隠していた『ゾンビランドサガ』は、アイドルもの愛好家以外にも訴求するために、「聞いた人の人生が変わる」が「音楽活動をする決意」はしないエピソードを大量に入れています。

*6:『インセインシナリオ集 ブラックデイズ』所収の「ライブ&ライバル」はPC同士の友情が確実に破壊されるのでノーカウントとします。

『マモノスクランブル』で戦闘なしでも盛り上がるシナリオを書こう

TRPGシステムにあったら嬉しい5つのこと

皆さんはTRPGのシナリオを書いていて、「NPCと殴り合うわけじゃないけど、体力的なものを削り合う緊張感を演出したい」と思うことはありませんか?

私はあります。

シナリオの中でPCたちに極道入稿や法廷バトルや料理対決やライブエイドやカーレースやヤシオリ作戦をさせたくなることは数え切れないほどあります。

もちろん、成功困難な達成値で行為判定をさせてもいいでしょう。

Aの魔法陣』のように、行為判定の汎用性と面白さを追求したシステムもあります。

もちろん、それ専用のシステムでシナリオを書いてもいいでしょう。

バンド活動で心の距離を縮めるなら『ストラトシャウト』、アイドル活動でファンを増やすなら『ビギニング・アイドル』、社畜として世界を救うなら『ネバー・レイト・ナイターズ』、破滅フラグを折るなら『ルーイン・ブレイカーズ』、TCGで決闘するなら『カードランカー』、真相を推理するなら『フタリソウサ』や『赤と黒』など、目的ごとに様々な戦闘ルールを持つシステムがあります。

しかしながら、

  1. 戦闘ルールにNPCだけでなく無機物や概念的なものとも戦えることを明記している
  2. 商業システムで入手しやすい
  3. ルールやデータが簡単
  4. プレイ人数やプレイ時間の柔軟性が高い
  5. キャラクリエイトの自由度が高い

上記をすべて満たすシステムがあったら、今まで泣く泣く諦めてきたあんな展開やこんな展開を描けると思いませんか?

それができるのが『マモノスクランブル』なんです!

『マモノスクランブル』とは?

『マモノスクランブル』は〈東京〉に生きるマモノとなって、日常で起きるさまざまな事件を解決していくTRPGシステムです。

〈東京〉という表記ですが、イメージとしては現代の東京に『血界戦線』のヘルサレムズ・ロットができた感じです。人間とマモノが共存し、超常的な現象が日常的に起こります。

使用ダイスは12面体ダイスを1人あたり4個程度。

判定は、特性の演出やマリョク消費で最大3個までダイスを増やし、PCの能力値以下の出目があれば成功です。

では、この『マモノスクランブル』がいかにして「TRPGシステムにあったら嬉しい5つのこと」を満たしているか見ていきましょう!

1.[ロケアクション]も[ゆるアクション]もNPCだけでなく無機物や概念的なものとも戦えることを明記している

『マモノスクランブル』では各PCが20の【耐久値】を持っており、0になると[ノックアウト]として行動不能、シナリオによっては[死亡]としてロストします。

この【耐久値】は「マモノのタフさ」であり、身体的な負傷だけでなく、精神的ストレスや、経済的損失によっても減少する、シナリオを継続する能力を総合したものになっています。

そして、『マモノスクランブル』には「全PCの【耐久値】が0になる前に目標を達成できるかを、複数回の行為や[判定]で決めるルール」が[ロケアクション]と[ゆるアクション]の2つあります。

まず、[ロケアクション]はいわゆる戦闘です。

ラウンド、エリア、イニシアチブ、スキル(作中での呼称は〈マギ〉)の概念があり、PCたちとエネミーで【耐久値】を削り合います。

そして、エネミーはNPCだけでなく無機物や概念的なものでもOKとルールブックに明記されています。

[エネミー]は必ずしも人間やマモノだけとは限らない。例えば"バリケード"、"白紙の原稿"、"相手の論拠"など無機物や概念的なものも[エネミー]になりうる。攻撃(作業)の演出は各マモノ(PC)が自由に行ってくれ。

からすば晴『マモノスクランブル』(2023)、富士見書房、p183

私はこの文章から『コミックマスターJ』や『逆転裁判』をやれという声が聞こえてきました。

そして、[ゆるアクション]は[行動フェイズ]の目標達成に【耐久値】の減少と回復を追加したものです。

GMが[目標]と[必要進行度]を提示し、PCたちは持ち回りで[判定]することで[進行度]を上げていくのは[行動フェイズ]と一緒ですが、[ゆるアクション]では[判定]をするたびに【耐久値】が減少し、全PC共有のリソースである[マリョク]を消費することで【耐久値】を回復できます。

ルールブックが想定している使用例を引用しましょう。

たとえば「カレーを100人前作る」とか「ライブを成功させる」とか、そういう大きな目的だ。

同上、p198

私はこの文章から『将太の寿司』や『ボヘミアン・ラプソディ』をやれという声が聞こえてきました。

2.商業システムで入手しやすい

私はオフラインセッションがメインなのでルールブックは紙派なのですが、同人システムはルールブックがPDFのみであったり、ブラウザでしか閲覧できなかったり、紙版が存在しても入手性が低かったりと、人に勧めづらいものが多い印象です。

その点、『マモノスクランブル』は2023年8月に発行されたばかりの商業システムであり、紙版の新品が入手しやすく、電子書籍もあります。

サプリメントはなく、基本ルールブックは2000円+税とお財布にも優しいです。

また、からすば晴氏の個人ページにてルールとデータの大半が閲覧できるので、無料同人システムにも似たハードルの低さがあります。

3.ルールやデータが簡単

こちらがルールサマリーなのですが、シナリオで使用するすべてのルールが1枚に収まるぐらい簡単です。

https://karasuba-sei.biz/officialsite/wp-content/uploads/2023/08/mamono_rule.pdf

ではPC作成が複雑かというと、初期作成で[特性]4つと〈マギ〉1つを取得する以外はすべてフレーバーです。

そして[特性]も「演出に組み込むと判定に使えるダイスが増える」だけで数値的なデータがなく、ルールブックに記載されているのも例に過ぎません。

よって、基本ルールブックで記載されている21個のマモノ用〈マギ〉にさえ目を通せば、問題なくPCを作れます。

クラン作成もありますが同様の理由で、基本ルールブックで記載されている12個のクラン用〈マギ〉にさえ目を通せば、問題なくクランを作れます。

4.プレイ人数やプレイ時間の柔軟性が高い

TRPGでいちばん大変なのはプレイヤー集めとセッション時間の確保と言っても過言ではないでしょう。

実際、各種概念との戦闘ルールを持つシステムとしてあげたものには、シナリオによってプレイヤー人数に融通が利かない物が多いです。

ストラトシャウト』はシガラミやステップ数、ターゲットのDPを調整する必要があり、『ネバー・レイト・ナイターズ』はPL3~4人用、『ルーイン・ブレイカーズ』はHO制、『カードランカー』はサイクル数の調整が必要、『フタリソウサ』はPL1~2人用、『赤と黒』は推奨PL4人で2~3人の場合はエネミーデータの調整が必要です。

対する『マモノスクランブル』はプレイ人数はGM含めて1~5人。シナリオはソロとマルチに分かれており、マルチシナリオはPC人数に応じて[必要進行度]やエネミーの【耐久値】が自動で調整されます。

また、エネミーの強さについても、PCの成長度(作中での呼称は「強度」)から[脅威度]を算出し、[脅威度]に応じた数のエネミー用〈マギ〉を取得することで調整できます。

また、GMがPCとして参加するGMCも、公式でサポートしています。

プレイ時間はキャラ作成を除いて2~3時間です。

ワンナイトセッションに最適です。

シナリオは簡単に作成できるので、コンベンションなどで時間が余ったらもう1シナリオやればいいでしょう。

5.キャラクリエイトの自由度が高い

多くのTRPGはPCの種族または職業に制限があります。

自由度が高いと言われる『クトゥルフ神話TRPG』は公式では人間しか作れませんし、逆にファンタジー系システムは複数の種族を用意しているものの職業としては冒険者や旅人しか作れないことが多いです。

『マモノスクランブル』は〈東京〉に生きるマモノであれば、[特性]として取得できるかぎりで何でも作れます。

まずは種族です。

〈東京〉は地理的時代的に現代日本の東京と同じとして、「マモノ」については作中の「国際基準」を見てみましょう。

  1. (自分の)意思と(人間への)伝達手段を持つ
  2. (マモノとしての)自覚がある
  3. マリョク反応がある

シナリオの進行上、現代日本の交通インフラで物損を出さずに都内を移動さえできれば、邪神だろうが巨大ロボットだろうが小動物だろうが問題なく作れます。

逆に言うと、元人間でも、人間とほとんど変わらない外見でも、マモノとしての自覚が薄くても、マリョクを必要としさえすればマモノです。

たとえば、マモノの血を引いたり体の部位を移植された「半妖」や、神様や厄介者として祀られてしまった「生き神」、マモノに取り憑かれた「憑き者」でもPCにできます。

そして職業は、【社会】の[特性]として取得するものなので、GMが許可するかぎり、あらゆる職業を[特性]数の上限まで兼業できます。

『マモノスクランブル』のシナリオを書こう!

『マモノスクランブル』の魅力が伝わりましたでしょうか?

ちなみに私は『マモノスクランブル』で逆転裁判』をするシナリオ『客演裁判 スクランブる逆転』を書き、TALTOで公開しました

talto.cc

今度はあなたが『マモノスクランブル』でシナリオを書く番です!

番外編

有識者から情報提供があったものの、TRPGシステムにあったら嬉しい5つのこと」をすべて満たしていなかったので割愛したシステムを紹介します。

魔法学園RPG ハーベスト

同人サプリでもOKなのでしたら、魔法学園RPGハーベストの「フロントライン・ファイターズ(FF)」という同人サプリを導入することで、「概念のエネミー」を作れます。

FFには「拠点戦闘」というルールがあり、文字通り戦闘を支える拠点を設定できるのですが、この「拠点」は必ずしも実態があるものではなく、例えば「敵の力の根源」「スポーツの得点」なども拠点として設定できるため、「概念を敵(の拠点)として設定できる」ことになります。

月見里宙氏から情報提供いただきました。

『魔法学園RPGハーベスト』は武装少女RPG プリンセスウイング』の作者である涼宮隼十氏が無料で公開しているシステムです。

同人かつサプリの導入が必要であることから、割愛いたしました。

常夜国騎士譚RPG ドラクルージュ

「ドラクルージュ」にはまさしく概念の敵(君主への嘆願とか乗り越えるべき試練とか)とダイスを振って戦うためのデータがあります。使い勝手いいんだよな…

ぱむだ氏から情報提供いただきました。

『常夜国騎士譚RPG ドラクルージュ』は『ゆうやけこやけ』『永い後日談のネクロニカ』の作者である神谷涼氏がデザインしたシステムです。

「真祖の系譜たる吸血鬼の力を持つ騎士として、堕ちた同胞や太陽の欠片と戦い、あるいは友との交流やロマンスに耽る」というコンセプトであり、PCは吸血鬼かつ騎士で固定されているので、割愛いたしました。

TRPGシナリオ書きたいサーバー Advent Calendar 2023

この記事はDiscordサーバー「シナリオ書きたい」の2023年アドベントカレンダーの一環として執筆いたしました。

アドベントカレンダーとは、12月1日からクリスマスまで、いろいろな人がリレー形式で、テーマに沿った記事を公開していくお祭りカレンダーです。

TRPGシナリオ・システム・ソロジャーナリングRPGのいずれかに興味のある方は以下のリンクからほかの方の記事ものぞいてみてください。

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「無限ハグ」の起源は「忍法・夢幻泡影」だった!?

プリティーリズム』とは、タカラトミーシンソフィアが共同開発したアーケードゲームをもとにしたアニメシリーズである。『プリティーリズム』は、ダンス・歌・ファッションが三位一体となった架空のアイスダンス競技「プリズムショー」を題材としている。その「プリズムショー」のなかで最も重要視されるのが、時として物理法則をも超越可能なジャンプ「プリズムジャンプ」である。その「プリズムジャンプ」のなかでも卓越した視覚的インパクトを誇るのが「無限ハグ」と「無限ハグ・エターナル」であり、どちらも名称に「無限ハグ」を冠しているものの、その描写は大きく異なる。

 無限ハグは「無数の分身を飛ばし、すべての観客にハグする」であるのに対し、無限ハグ・エターナルは「宇宙をバッグに巨大化し、地球を両腕で抱きしめる」と、旧劇場版『エヴァンゲリオン』の綾波レイを彷彿とさせるような描写になっている。
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mugenhugeternal.png


 なぜこのような違いが生まれるのか。一般的な説明としては以下のようなものが考えられる。

 「無限ハグ」はそもそも、男子プリズムショーのレベルの高さを表現するためのプリズムジャンプである。だから、女性でも飛べる「無限ハグ・エターナル」はあくまで「無限ハグ」の簡易版であり、描写が異なる。「無限ハグ・エターナル」が「無限ハグ」を冠しているのは、ショウが春音あいらに「無限ハグ」として指導した結果だから。

 たしかに女性キャラは「無限ハグ・エターナル」のほうしか飛んでいない。しかし、男性プリズムスターが「無限ハグ」のほうしか飛ばないわけではない。如月ルヰは、速水ヒロの直前のショーで「オーロラライジング」に続けて「無限ハグ・エターナル」を披露しているのだ。ヒロの好敵手として演出されるなかで、である。
 また、プリリズにおいてもキンプリにおいても、「無限ハグ・エターナル」のほうが作品の終盤で披露されており、「物語をクライマックスへ導く」という役割を担っている。はたして、ただの簡易版にそのような役割が務まるだろうか。
「簡易版」説ではこれらの現象を説明できないのである。

 両者の演出の違いを男女の力量差だけでは説明できない。そこで私は「無限ハグ」という名称自体に注目した。「無限ハグ」をすべて熟語で表現すると「無限抱擁」になる。また、「無限抱擁」は仏語「夢幻泡影」(むげんほうよう)の当て字である。そして、山田風太郎の『くノ一忍法帖』(初版1961年)には「無限抱擁」という当て字とともに「忍法・夢幻泡影」という信濃忍法が登場するのだ。その描写を見てみよう。

美しい銀灰の泡は、かぎりなく女陰から盛りあがり、風にとぶ。風のなかにそれはちぎれて、一つずつ子宮のかたちにふくれあがり、幾十幾百となくもつれあい、薄明に蒼い虹を回しつつ、音もなく野面をながれた。それと黒鍬者が相ふれたとみるまに、彼らはその巨大な泡につつまれ、泡のなかで、首をおりまげ、手足をぎゅっとちぢめてうごかなくなってしまう。まるで、子宮の中の胎児そっくりに。

山田風太郎くノ一忍法帖角川書店、2003、p280)
 

ーーこれはのちの話であるが、彼らの知能、運動能力が完全に回復するまでに約十日を要した。(中略)そして、ようやく以前の記憶がよみがえるようになっても、千姫屋敷に乱入した瞬間以後の記憶は完全に失われていた。

(同上、p179)

「忍法・夢幻泡影」とは「股間から無数の泡を飛ばし、泡をすべての敵に接触させる。泡に触れた相手は胎児レベルにまで退行し、約十日後に回復するが、術に関係する記憶は失われる」という忍法である。ninpo.png

 一対多であること、相手を放心させることも含めて、「無限ハグ」の描写とあまりに酷似している。

 そして、ここが重要なのだが、「忍法・夢幻泡影」を使う女忍者・お由比が秀頼の子を出産し、失血で死ぬ直前に放った忍法(忍法名を明らかにする前に術者が事切れたため、便宜的に「忍法・夢幻泡影・絶」と呼称する)はこのように描写されているのである。
 

鞠みたいな姿勢でおよいでいった鼓隼人が女忍者の腹部にあたまをめりこませたのだ。一個の成熟胎児を出したばかりの子宮は、すっぽりとその頭部を呑んだ。ふたりはその奇怪な構図でしばらく立っていたが、やがて女忍者がからだを横ねじりにして、徐々に石戸の上にたおれた。それでも、隼人の頭ははなれなかった。彼の鼻口は血塊と羊水につまり、その頸にやわらかい子宮筋と子宮粘膜がまといついた。そして、胎児そっくりにぎゅっと手足をちぢめた鼓隼人は、この子宮のなかで、曾てこの剽悍児がみせたことのない、円満具足の死微笑をうかべて絶息した。(同上、p285-286)



 こちらは「誘惑した相手の頭を子宮で呑み込み、窒息死させる」という忍法である。同じ胎内回帰をモチーフとした忍法でありながら、一対一、相手を絶命させる、と効果が大きく異なる。
ninpozetu.png
 そして、相手を道連れに絶命した女忍者の浮かべた表情の表現が「無限抱擁の母性の笑いに似た笑顔」(p286)なのである。

 もちろん、「忍法・夢幻泡影・絶」から「無限ハグ・エターナル」を直接導くのは性急にすぎるだろう。やはり旧劇場版『エヴァンゲリオン』からの影響を無視することはできない。しかし、当の旧劇場版『エヴァンゲリオン』の描写自体が「忍法・夢幻泡影・絶」の影響を受けていると考えられる理由がふたつある。
 ひとつは、『くノ一忍法帖』を原作とした映画が1964年(東映版)と1991年(オリジナルビデオ版)に公開されていることだ。日本の特撮作品への造詣が深い庵野秀明監督が、これらのいずれか、もしくは両方を見ていることは十分に考えられる。
 もうひとつは、名前が「夢幻泡影」の当て字である楽曲「無限抱擁」(作詞・及川眠子)の存在だ。これは『エヴァンゲリオン』のTVシリーズのサントラに収録された、本編未使用のイメージソングである。「命はただ儚くて」「悲しみは(中略)忘れていかれること」「永遠を手に入れたくて女は魔物になる」など、抽象的な歌詞だが、「歴史の影で使い捨てられる存在である女忍者が、徳川家の追手を殺めてまで豊臣秀頼の子を生もうとした」という『くノ一忍法帖』の筋書きと対応させて読むこともできる。実は、当て字「無限抱擁」を使う作品にはもうひとつ、瀧井孝作の小説『無限抱擁』(初版1927年)があるのだが、そのヒロインである松子は魔性の女としては描かれていないし、「巨大化して月を抱きしめる綾波レイ」と青春小説『無限抱擁』の間にはあまりにも飛躍がある。念のため「月」で本文検索をかけたが、「暦として月」の用法しかなく、「天体としての月」の描写自体が『無限抱擁』には存在しなかった。
 よって、「忍法・夢幻泡影・絶」は、旧劇場版『エヴァンゲリオン』を経由して、「無限ハグ・エターナル」に影響を与えたのではないだろうか。
ninppo.png


「忍法・夢幻泡影」起源説にのっとれば、春音あいら、ショウ、天羽ジュネ、如月ルヰの飛んだプリズムジャンプが「無限ハグ・エターナル」であった演出上の理由も説明できる。
 無限ハグ・エターナルは、幸せの絶頂の表現であると同時に、プリズムスターとしてやり残したことはない、という悟りの境地を示している。それを飛ぶことは、プリズムスターを続ける理由の喪失を意味するのだ。
 実際、物語の終幕では、春音あいらとショウはともに日本を去り、天羽ジュネは法月聖とともにあるために能力と記憶を失い、如月ルヰはシュワルツローズの主催者でなくなった法月仁に寄り添うのだ。それは、秀頼の子を千姫に託したため、胎児のために生きるという使命がなくなり、敵を道連れに死ぬ選択をしたお由比と重ならないだろうか。

 ながながと論述してきたが、『プリティーリズム』シリーズも『キング・オブ・プリズム』も『くノ一忍法帖』も掛け値なしに名作であることは、この仮説の真偽にかかわらず、ゆるぎない事実である。
 そして、この文章の読者にはアニメファンが多いだろうが、ぜひとも『くノ一忍法帖』を読んでいただきたい。戦国大名たちの思惑のなかで消費される忍者たちの闘争を描いた『忍法帖』シリーズ。ちょうど2018年1月から『バジリスク〜桜花忍法帖〜』が放送されることからも、その人気が衰えていないことがわかるだろう。そのシリーズのなかでも、『くノ一忍法帖』は異色作であると同時に、山田風太郎本人も認める傑作中の傑作である。「登場する5人の女忍者はすべて妊婦」「女(母親)同士の固い絆」「対する5人の伊賀忍者も忍法はすべて下ネタ」「徳川家の歴史的逸話を忍者の闘争の結果として再解釈」「山田風太郎本人が医師免許を持っていることによるトンデモ生理学」と、娯楽小説としての見どころが目白押しなのだ。

まどか悪妻論――まどかにさよなら

0. 警告――もう何も怖くない

まどマギ』は監督:新房昭之、脚本:虚淵玄、キャラクター原案:蒼樹うめ、という全く方向性の異なるスタッフが作り上げた魔法少女アニメである。そこでは魔法少女モノのテンプレから外れたハードな展開と、魔法少女モノの醍醐味である自己犠牲が両立した稀有な作品となり、大きな衝撃をアニメファンにもたらした。
まどマギ』はほむらとまどかの二者関係が主軸となる作品である。多くの論者が『まどマギ』について語る際、ほむらの失敗に焦点があてられる。それは『叛逆』がほむらの視点で進行し、最後に万能の力を得ながらも執念に囚われた姿が描かれるからだ。しかしこれらの事実はほむらが不幸であることの証明になっても、この結末がどちらに起因するかの証明にはならない。
 本論考では、ほむらとまどかの出会いから別れまでのすれ違いを『TV版』から順を追って検証し、ほむらは一貫してまどかとの二者関係の構築を目指していたこと、そしてまどかはほむらの期待に応えようとしなかったことを確認する。そこからまどかはなぜ最愛の隣人であるほむら以外の他者のために魔法少女になってしまうのか、その逸脱を坂口安吾のエッセイを足がかりに言語化し、『叛逆』におけるほむらの選択はほむらがまどかにアプローチする唯一の方法だったこと、そしてほむらの選択から必然的に導かれる今後の展開を素描する。最後に『まどマギ』という物語におけるまどかのあり方と、「オタク文化」という産業におけるキャラのあり方に相似を見出し、『まどマギ』の受容者がまどかの人格について言及しないのはキャラを受容する際のオタク的行動類型に起因するのではないか、と問題提起する。

1. TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』――出会いから別れまで

 まず、ほむらが転入し、まどかと初めて出会った時、既にまどかは魔法少女になっていた。非常に自尊心に満ち溢れており、ほむらはそこからまどかに対する憧れを募らせていく。後にまどかが魔法少女であることを知るも、それはまどかが高い利他性を持つからであって、自尊心の高さはまどかが魔法少女になったことが原因だとは思わなかったのである。そしてワルプルギスの夜との戦いの中でまどかは戦死する。この時のほむらの願いは「まどかとの出会いをやり直したい」。「魔女を倒す」でも「まどかを救う」でもない、ただ一緒にいられる時間を増やしたかったのだ。そしてほむらは魔法少女となり、ワルプルギスの夜との戦闘を二人で生き残る為にまどかと共闘するが、ワルプルギスの夜を倒した後にまどかは魔女化してしまい、ほむらは魔女が魔法少女の未来の姿であることに気付く。その後何度もまどかと共闘するが、必ずまどかは魔女化してしまう。それをほむらはまどかに伝え、共に魔女として一緒にい続けることを提案するが、まどかは自身が魔法少女にならない世界の構築をほむらに託す。まどかはほむらの感情よりも一般市民の安全を採ったのだ。まどかの願いを聞き届けたほむらはまどかと一緒にいる暇もなく戦い続け、まどかに魔法少女になることを禁じ続けるが、その甲斐もなくまどかは世界を救う為に自分の命を捧げて魔法少女になってしまう。まどかは世界を救う為ならほむらの制止を無視するのだ。第11話の時点で、ほむらの願いは「まどかを救う」にすり替わってしまっている。もうほむらの願いの中にほむらはいない。この時点でほむらの不幸は確定していたのだ。そして最終回、まどかはまたもほむらの制止を無視し「全ての魔女を生まれる前に消しさりたい」という願いをキュゥべえに告げる。まどかは、全魔法少女を救う願いは魔法少女であるほむらも救えると思ったのであろう。もちろんそのような願いはほむらを救わない。むしろまどかの願いは結果としてまどかの人間としての消失を意味し、時間を巻き戻してもほむらと出会えない存在になってしまう。ほむらは概念化する途中のまどかと話をするが、そこでもほむらは「最高の友達」と呼ばれ、全存在をもってして応えるべき存在としては評価されない。まどかに因果律をもねじまげるだけの魔力係数(注:一国の女王や救世主、そしてまどかが高いとされることから、それが他者の期待の総量と同義であることがわかる)を与えたのは他ならぬほむらなのに、である。他にも、まどかが概念化した後、まどかがほむらに声援を送っている描写があるが、他の魔法少女にも救済の際に同じようなことを言っているのだ。
 ここまでが『TV版』の経緯である。ほむらは二人の時間を確保する為に尽力するが、まどかはほむらの願いを無視して自己犠牲し続けている。次に『叛逆』をみてみよう。

2. 『魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』――再開、そして離反

『叛逆』は『TV版』に対する完全新作アニメ映画である。映画の前半を占める「ほむら結界」の中ではアニメーターの手書きと劇団イヌカレーのコラージュが分離不能なまでに渾然一体となっており、今までの魔女結界との違いを際立たせている。
 『TV版』で完全に終結した物語がファンの期待を背負って本作で再起動したが、そこで観客に提示されたのは「残された主人公であるほむらは救済されえない」という事実だった。まどかとほむらの二者関係において『叛逆』は『TV版』の再確認の側面が強いため、『TV版』より手早くまとめたい。
「ほむら結界」にてまどかに「魔獣の世界」について話した時、まどかは「自分はそんな自己犠牲なんて出来ない」と返すが、そこにほむらが悲しむという視点はない。無論まどかの回答は、ほむらが人間としてのまどかを必要としていることを表現出来ないほむらの不器用さにも起因するが、それにしてもあんまりである。そもそもまどかは現実で頑なに自己犠牲を貫いたのだし、この回答からはまどかが自己分析を出来ていないという結論を導き出すのが妥当だろう。その後キュゥべえの解説によりまどかから記憶を抜けば人間としてのまどかを手に入れられることを知り、他の魔法少女たちの手引きでキュウべえのシールドから脱出する。すでに「半魔女状態」にあったほむらはまどかの救済を拒否、〈愛〉の力でまどかの記憶と世界改変能力を奪取し、まどかと対立する悪魔として生き続けることを決意した。

3. 『鹿目まどか精神分析』――鹿目まどかとの性愛の不可能性について

まどマギ』における性愛の不可能性は、もちろんほむらの説明不足もあるが、それ以上にまどかの人格に起因している。まどかはほむらの想定する二者関係のモデル、一対一の性愛関係から逸脱したのだ。本論考ではまどかに言及する際に、女性の肯定的なステレオタイプとして頻用される「悪女」でも「娼婦」でも「聖母」でもなく「悪妻」という概念を提唱したい。それは「悪妻」が「本来ある一人の全存在を懸けた求愛に、女性は全存在をもってして答えるべき」という規範(貞淑主義)に「無自覚に他者を愛する」という形で逸脱しているからである。
 さて、日本において貞淑主義の崩壊、虚構性を戦後、真っ先に指摘した人物がいた。それが坂口安吾である。安吾は1946年に『白痴』『堕落論』を発表し、道徳が反自然的な幻想だと批判した。(坂口安吾(1946)『堕落論青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42868_27482.html 「この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。」)本論考ではその翌年に発表された『悪妻論』 を用い、まどかの逸脱を理解する手掛かりとしたい。(坂口安吾(1947)『悪妻論』青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html 以下「*」が付く鍵括弧内は同文章からの引用である)
 20世紀初頭から戦争終結にかけて、「家」制度に背く恋愛表現や、銃後の女性(特に未亡人)の性への言及は禁じられるものとなり、その流れは純文学にも及びんだ。 貞淑主義が全ての階級を席巻したのである。それは本国を離れる男性たちに置いていく妻の貞淑を国家が保証しなくてはならなくなったからであるが、そのような女性像は「ニセモノ」ではないか、という問いかけが『悪妻論』である。
『悪妻論』は「悪妻には一般的な型はない*」という例として、愛妻家(今の表現では「恐妻家」の方が適切であろう)の平野謙への言及から始まる。平野が妻にどれほど困らされても、それは妻との相性を受け入れたからであり、「人間的な省察*」があるからだと賞賛する。そこから「女大学の訓練を受けたモハンの女房*」は「世界一の女房であつても、まさしく男がパリジャンヌを必要とする女房*」であり、「日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の型の方を良妻也と断ずる。*」それは「人の心は姦淫を犯すのが自然で、人の心が思ひあたはぬ何物もない*」のに、「夫婦となり、姦淫するなかれ*」という「無理を重ねながら、平安だつたら、その平安はニセモノで、間に合はせの安物にきまつてゐる*」ということである。そして「悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見*」こそが「近代の発見*」であると、夫婦が平和でないことを肯定する。浮気をする悪妻は貞淑という虚構に疑問を持つ知性を持っているから良い、という主張だ。しかし『悪妻論』で安吾は上記の悪妻の定義に収まらない悪妻にも論じている。それが「知性なき悪妻*」 (「多情淫奔、たゞ動物の本能だけの悪妻*」)であるが、この悪妻に関しても「多情淫奔の性によつて魅力でもありうるので*」「魅力によつて人の心をひくうちは、悪妻ではなく、良妻だ*」と肯定する。安吾にとって全く肯定出来ないのは「魅力のない女*」である。「学問はあるかも知れぬが、知性がゼロ*」な女性は「野蛮人、原始人、非文化人と異らぬ*」と切り捨てる。『悪妻論』の最後は、夫婦関係によってもたらされる苦しみは知性の苦しみであり、糾弾されるべき野蛮な苦しみは戦争の苦しみである、という平野への呼びかけの言葉で〆られる。
 本論考において「知性」とは「性愛という二者関係からの逸脱に対する自覚」であり、まどかにはそれが欠けている。そういう意味において、まどかは「知性なき悪妻」である。『悪妻論』における該当部分を読み解くと、「悪妻(不倫ばかりする妻)の持つ価値とは、それが全ての男性に所有されうることである」とも拡大解釈出来るだろう。このような性質を持つからこそ、あまり魅力的でない男性でも「悪妻」を妻に出来るし、その男性はいつ「悪妻」が他の男性に奪われてしまうか不安にさせられてしまう。そういう意味ではまどかは理想的な「悪妻」であろう。遍在可能だから、全ての魔法少女の一生に付き添うことが出来る。しかしまどかのような存在にとって、ある一人の魔法少女の一生に付き添うことは〈愛〉と呼べるのだろうか。そのためにまどかは何か代償を払ったのか。否、まどかはどの魔法少女も特別視していない。そしてまどかはこのような存在になることを望んだのである。なぜか。結論から言うと、まどかは一人の人間を〈愛〉せない、一対一の性愛を営めないからだ。
 まどかの描く自己像は非常に空虚だ。魔法少女になっていない時のまどかは「私なんか」が口癖で、まどかを肯定する他者の意見を信じられない。『TV版』第10話冒頭でほむらと初めて会った時の、魔法少女として契約していた状態ではその自己否定が隠蔽されていただけだった。そんなまどかが自己を肯定するための唯一の回路が「より多くの期待に応える」ことである。まどかは他者の期待を自身の願望として内面化することでしか願望を持てない。そして期待の眼差しを向けてくれるのであれば、それが誰であろうと構わないのだ。だからキュゥべえの勧誘に必ず応じる。まどかは自身の主観で他者の価値を決められない、ありのままの他者に主体的に向き合えないからである。もちろんこれだけなら目の前の人間を助けるために命を惜しまない衛宮士郎のような「自己犠牲野朗」といった類型が存在するが、まどかの場合はその自覚もなく、規模も桁違いだった。古今東西、未来も含めて全ての魔法少女を救済しようとしたのである。
まどかは「博愛主義者」なのである。まどかが一人より全員を愛するのは、人格の全体性に向き合うことから逃げているからである。例えばあるネトウヨが「日本人は素晴らしい」と一億二千万人を称賛出来るのは、その一億二千万人の中から理想の日本人像を抽出し、その日本人像を称賛しているからである。彼は決して「目の前にいる、ある日本人は素晴らしい」とは言わない。個人としての日本人が内包する「不純物」と向き合えないからである。同様のことがまどかにも言えるだろう。まどかは「全ての魔法少女を救いたい」と言った。魔法少女を愛することは、自らのアイデンティティという『現実』に無自覚であるために、まどか自身が選択した一つの身振りにほかならないのだ。この時まどかが救いたいのはまどかの思い描く自己犠牲的な魔法少女像であり、それ故に一魔法少女のほむらが持つまどかへの〈愛〉を無自覚に否定しているのである。なんという暴力。なんという無自覚。概念化したまどかはほむらのことがわかったと言いながらも、ほむらの独占欲に向き合うつもりはさらさらない。まどかとの性愛は常に否定されるものとしてあった。ほむらの失敗はまどかに思慕してしまったこと自体から始まっていたのだ。そして、その失敗は命をもってしても肯定出来ない。どうせほむらが自殺しても、まどかはあの独善的な救済を施すだけで良しとするであろうから。

4. 『魔法少女まどか☆マギカ [続編] 断罪の物語』――「神」対「悪魔」

 これまでの議論から、予定されている次回作でどのような対話が行われるか大体予測できる。簡潔にSSで説明しよう。

ほむら「神としてのあなたは人間としてのあなたより多くの救済を世界にもたらした。それでも人間としてのあなたに接してもらうことでしか救済されない人がいるの」
まどか「どうして? 人間としての私は自信も力もなかったのに、人間としての私が救える人なんている訳がないよ」
ほむら「私がそうだからよ。そしてあなたに自信と力を与え、あなたに救済されることを期待した馬鹿な魔法少女が私よ」
まどか「ほむらちゃんは馬鹿じゃないよ。ほむらちゃんも愛する人のために魂を捧げた、立派な魔法少女だよ」
ほむら「あなたは全ての魔法少女を肯定する。でも全てを肯定するのは全てから目を背けるのと変わらないわ。私を見て、私を否定して、私を救済しないで。あなたの救済はどんな拷問よりも耐え難いわ」
まどか「そんな……。じゃあ私はどうすれば良いの?」
ほむら「〈愛〉を知ることよ。あなたは〈愛〉を知らないわ。あなたにとって〈愛〉なんて邪魔でしかないのでしょうね。一人を〈愛〉するために全魔法少女を愛することを手放したくないのだから。それでも私はあなたに〈愛〉を教えに来たの。一人を〈愛〉することがどれほど困難で、それ故にどれほど尊いか、を」

 まどかとほむらの関係はよく「秩序」対「欲望」という対立軸で語られる。それは『叛逆』終盤、力を失ったまどかにほむらが「秩序と欲望、あなたはどちらの味方?」と質問し、まどかが「秩序」だと答えると、「そう。なら私達はいずれ、そう遠くない未来に対立することになるでしょうね」とほむらは自身が「欲望」の味方だと認めるからである。しかし「欲望を最大化するために秩序を形成する」という功利主義から見れば「秩序」と「欲望」は対立しないし、二人は別に功利主義の是非で対立している訳ではない。そこで『まどマギ』における「秩序」と「欲望」を我々が日常使う言葉に翻訳することにしよう。まどかの「秩序」とはまどかが全魔法少女を愛すること。ほむらの「欲望」とはまどかがほむら一人のみを〈愛〉すること。つまり、二人は「多を愛すること」と「一を愛すること」、「博愛」と「性愛」で対立しているのである。やはり虚淵玄は自称通り「愛の戦士」だったのだ。

5. 『キャラ悪妻論』――本当の気持ちに向き合えますか

 さて、ここまでまどかがどれほど「悪妻」であるかを論じた。しかしこの「悪妻」という類型は、オタクの愛するキャラ全般に適用出来る概念なのではないか。まどかは物語レベルの「悪妻」だが、キャラは構造レベルの「悪妻」と言えないだろうか。例えばあるオタクがアニメショップでキャラグッズ(本でもキーホルダーでも抱き枕でも良い)を買う。そのグッズはそのオタクにとってかけがえない唯一の存在である。しかしそのグッズは工場のラインで大量生産された物であり、質的に同じ物が世界に遍在している。これは全てのキャラが複製可能性を持つ限り禁じようのないことだ。もしキャラから複製可能性をなくしたいならばそれを脳内から表現しなければ良いが、オタクが享受するキャラは定義の時点で既に表現されたものであり、複製可能性を持ってしまう。永遠に一オタクの占有物たりえないのである。よく、好きな作品がヒットすることを肯定する立場と否定する立場が語られるが、それは作品が「悪妻」としての価値を増すことの可否を論じているのであり、しかもそれは程度問題に過ぎない。
 ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』にて提唱した概念 を借用すると、現実の女性にはアウラがあり、接する男性もアウラを受け取るあり方を目指すが、キャラにはアウラがなく、誰もアウラを受け取ることを期待しない。
 実はこのようなオタク的行動の類型こそが、『まどマギ』について語る際にまどかに言及するのを妨害しているのではないか。つまりまどかは性愛対象としてのキャラを抽象化した存在であり、純粋な対象аであり、永遠の客体であって、主体になることはない。だからこそ、『まどか』という物語において、まどかが主人公・ほむらの性愛対象となり、そして失恋の対象になることに誰も疑問を抱けなくなっているのではないか。つまり『まどか』という作品内におけるほむらとまどかの間の断絶は、日常におけるオタクとキャラの間の断絶の反復であり、相似の関係にあるのである。
 そう考えれば、ほむらの苦悩は全オタクにとって他人事ではない。もしあなたがほむらをクレイジーサイコレズと嘲笑うことが出来るならば、それはあなたの愛するキャラが「悪妻」であることに気付いていない「幸福なオタクライフ」を送っているからだろう。
 あなたの「嫁」があなたに囁く「愛の言葉」には、本当に〈愛〉がありますか。
 あなたには「嫁」が「悪妻」であることを「近代の発見」として「享楽」する「人間的な省察」がありますか。

人形とホラーとバーチャルYouTuber

 2008年、動画投稿サイトYouTube日本法人は、広告料によって得た収益を動画投稿者に還元する「YouTubeパートナープログラム」を開始した。年を経るにつれてユーザー収入の総額は上昇し、YouTube広告の収入だけで生活費を賄う投稿者が現れるようになる。審査制だったプログラムが2012年には一般ユーザーに公開され、 「好きなことで、生きていく」 ことを目論み参加する投稿者は爆発的に増加した。彼らはYouTuberと呼ばれ、2017年には「男子中学生がなりたい職業ランキング」でも三位にランクインした。 
 YouTuberの多くは個人の名義でチャンネルを開設しており、個性を高めるために極端なキャラ付けをする傾向がある。たとえば「AVGN」(AngryVideoGameNerd)はいかにもなオタクのコスプレをし、「クソゲーに怒りながらも愛することをやめられない」というキャラを演じている。つまり、キャラさえ立てば顔出しは必須ではない。その証拠に、Live2Dでイラストに表情を手付けし、機械音声にしゃべらせる、「アニメ娘エイレーン」のようなYouTuberも存在する。
 そして2016年12月1日、キズナアイが動画投稿を開始する。 白い背景のなかをアニメ調の3Dモデルが、身振り手振りや豊かな表情を交えながら話す。その最初の動画で自身を「バーチャルYouTuber」と呼称したことで、「バーチャルYouTuber」という概念が確立された。本人が示した解釈としては概ね「VRアバターを用いたYouTuber」である。 
 本論考では、顔出しで架空のキャラを演じるもの、手付けの映像技術や音声技術の使用を除外するため、「モーションキャプチャーや表情認識、音声認識を駆使して、演者の身体運動や発話行為を反映させた、架空のキャラクター」と定義する。

 では、バーチャルYouTuberは「ガワをアニメ風にしたYouTuber」でしかないのだろうか。「人形」や「ホラー」といった尺度は必要ないのだろうか。私は否と答える。バーチャルYouTuberの三つの傾向や特徴を理解するには、人形という尺度は有効であり、YouTuberにはない怖さや奇妙さ、そして面白さを説明できるようになるのである。

 一つは、バーチャルYouTuberが動員するモチーフの多くがキャラクター化されたホラーモンスターなことである。この傾向は個人が運営するバーチャルYouTuberにおいて顕著である。いくつか例を挙げると、のらきゃっとの背景にはSCP-040-JP「ねこです」(ある井戸小屋を視認することでイエネコの認識を歪められてしまう、という都市伝説において、歪められた人が認識するイエネコの像) が配置され、ときのそらのもつぬいぐるみ「あん肝」はときのそらが寝ると自律してしゃべったり動いたりするようになる。
 また、本人自体の属性がホラーモンスターである者も多い。霊電カスカは幽霊、カフェ野ゾンビ子はゾンビ、照乃は装着者に憑依する呪いの仮面、届記ウカは屋敷に迷い込んだ人間を剥製にする不老不死の美少年である。
 この現象を説明するために、悪夢に登場するホラーモンスターについての精神分析的解釈を援用できるだろう。
 悪夢に登場する対象が怖いのは、悪夢を見る者の中にある隠された欲望が検閲され、変形して現れたものだからである、と言われている。否認によって愛が攻撃性に、投影によって対象への能動性から自身への能動性に、退行によって性器期的な欲望(性交渉したい)が口唇期的な欲望(抱かれたい、噛まれたい、食べられたい)に変形した結果がホラーモンスターなのである。 
 バーチャルYouTuberにおけるホラー的な要素も同様に、見る側と見られる側双方の隠された欲望が変形したものである。見る側については前述のとおりだが、見られる側については非倫理性へのエクスキューズとして活用される。
 バーチャルYouTuberはしばしば非倫理的である。キズナアイは「友達」をユニティ・アセットで購入し、電脳少女シロは視聴者のVRアバターに向かって「順番に殴るね」と発言し、輝夜月はクリぼっち(クリスマスを一人で過ごすこと)を揶揄する動画をクリスマス・イヴに投稿する。これらの行為は、顔出しならば炎上しかねないが、人権をもった他者がいないVR空間だからこそ成立するものである。そして、企業が運営するバーチャルYouTuberであれば企画者と演者が分かれているために精神的な負担は分散されるが、個人によるものではすべてを一人で背負わなければならない。このちがいが、個人バーチャルYouTuberにおけるホラーモチーフの多様として現れているのだ。「ホラーモンスターだから非倫理的なのはしかたがない」と。

 二つは、バーチャルYouTuberは演者の自己同一性を撹乱することである。これは、一人が複数の人格になるケースと、複数人が一つの人格になるケースの双方が観測されている。
 前者は、個人製作のバーチャルYouTuberによく見られる。2017年12月から急増したバーチャルYouTuberのほとんどは個人によって製作されたものである。そのような場合、キャラクターと技術者という、時として相反する利害が一個人に同居することになる。
 ねこますは、動画が就活におけるポートフォリオであることを最初から公言している。このようにキャラクターと技術者を同一化させることは、矛盾への対処法として正しいように思われた。しかし、様々な企業とタイアップするなかで、求められているのはキャラクターとしての自身であり、技術者としての自身が求められないと不満をもらす。
 この事態は、「人形使いが人形に主導権を握られる」という、腹話術師を題材とした物語類型に酷似している。
 降霊術として生まれた腹話術は、人形への外化することで声を術者の制御下に置き、娯楽化に成功した。 現行の腹話術の多くは人形がボケ、術者がツッコミを担うが、それは人間が人形よりも人間に感情移入することが自明視されているからである。これにより、術者も観客も安心して、人形にバカキャラを演じさせることができるようになる。しかし、人形にしゃべらせている声の由来は他者の声であり、それをメディアとして媒介するなかで、術者にも御しえない個性が人形に発生し、主従関係の転倒への不安と恐怖を喚起する。
 同様に、バーチャルYouTuberも自身の声や身体性を外化することで娯楽性を獲得した。自身とは似ても似つかないVRアバターを用いることで、日常生活では演じられないような奇抜なキャラを演じることができる。そのVRアバターの表情は極端にデフォルメされているか無表情である。それは、過剰な感情表現をするチャップリンやロイド、「偉大なる無表情」を貫いたキートンのように、どちらも感情移入(それは娯楽においてしばしば逆効果となる)を抑制するのに役立つ。そして、その奇抜なキャラにツッコミを入れるのが編集作業であり、失敗を指摘する文面をカッコ付きで表示したり、ズッコケやハタキのSEを加えたりする。つまり、ボケとツッコミを時間差で行った結果がバーチャルYouTuber動画なのである。しかし、キャラクターとしての自身と技術者としての自身の評価は多くの場合均衡せず、大抵はキャラクターのほうに向かう。この現象への対処法としては、技術者としての自身を「プロデューサー」と呼称することで、キャラクターとしての自身を積極的に自律化したのらきゃっとのほうがむしろ最適解なのかもしれない。
 後者は、身体動作、表情、声の間のズレである。それは現行のVR技術の限界に由来する。身体動作を認識する技術では表情を認識することができないため、表情専用の別の技術を用いる必要がある。この状況は、ササキバラゴウが「キメラ」と呼称した、写実的な身体と記号的な頭部によって構成されたキャラ図像の類型を思い起こさせる。 
「キメラ」とは、人間が進化の過程で恐怖として認識できるようになった表象カテゴリである。
 原始的な生物は外界についての表象とそれによって引き起こされる行為が一対一対応しているが、それでは遺伝子に刻まれていない例外処理ができない。そこで人間は、この対応を記述面と指令面に分離させ、信念と欲求を別々にもつように進化した。この進化により、認識と行動までの間にバッファを設けられるだけでなく、信念と欲求のさまざまな組み合わせに対して、さまざまな行動が取れるようになる。それは、表象の対象を複数の属性に分解し、別々の対象がもつ属性を再構成する能力とも言いかえられる。その能力の行使の一つがキメラを表象する行為と解釈する行為である。 
 なかでも、輝夜月はモーション、表情、声を同時ではなく別々に収録し、それぞれの要素を別の演者が演じていると言われており、 もしそうであるならば、バーチャルYouTuberのもつ「キメラ性」を意識的に強調させた例と言えるだろう。

 三つは、表象としてだけでなく道具としての他者性である。VR技術はいまだに不安定であり、演者にもその挙動を完全に制御することができない。
 モーショントラックの不具合によって、手首が回転したり、腕や髪が胴体を貫通したりする。Unityの物理演算の初期設定が不十分で、だるま落としができなかったり(もちひよこ)、狐耳が骨折したり(ねこます)、たけのこの里をつかめかったりする(ニーツ)。音声認識の不備で「処女じゃない」と発言してしまう(のらきゃっと)。これはYouTuberではないが、生放送で演者の生映像が流出した事例(WEATHEROID TypeA Airi)もある。
 YouTuberは扱うコンテンツ(ゲームやアプリ、福袋、科学実験など)によって、投稿者にも予測不能という意外性を獲得するが、バーチャルYouTuberはその成立条件からすでにそれらが担保されているのである。

 以上、バーチャルYouTuberを「人形」「ホラー」の観点から再解釈してきたわけだが、それではバーチャルYouTuberは無機質で怖いだけの存在なのかと言えばそうではない。対象への恐怖は快感と両立するだけでなく、むしろ快感を促進するものである。
「身体化された評価理論」によると、「感じ」をともなう情動は、対象を認識したときの身体的反応をレジスタすることで、対象への中核的関係主題(「自分にとっての良し悪しという観点からの自分と状況との関係」)を表象している。 
 恐怖の身体的反応は、文脈によっては快感としても感じられる興奮状態をもたらすアドレナリンや、鎮静作用や快感をもたらすエンドルフィンの放出をともなう。さらに、恐怖を司る扁桃体は同時に快楽も司る。また、吊り橋実験からもわかるように、情動についての意識的認知は文脈による解釈を含んでおり、恐怖による「感じ」は解釈次第で恐怖にも心地よい興奮にもなりうる。ましてバーチャルYouTuberの場合、これはVR空間であって、脅威は実在しないという信念が存在している。この信念が本格的な回避行動を抑制し(誰も画面を叩き割ったり電源を落としたりはしない)、「不快で避けるべき」という意味づけを弱め、恐怖に内在する快感の側面だけを味わうことが可能になるのだ。 
 つまり、バーチャルYouTuberは人形的な怖さを心地よい興奮に変換する装置なのである。

参考文献
Webページは全て最終閲覧2018年1月25日
  YouTubeの収益化プログラム、日本のユーザー収入が3年で4倍に 「それで生活している人もいる」http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1207/30/news099.html
  好きなことで、生きていく https://youtu.be/fIhLHQ2tXQM
  中高生が思い描く将来についての意識調査2017 http://www.sonylife.co.jp/company/news/29/nr_170425.html
  KADOKAWA コミック&キャラクター局 (2017). コンプティーク2018年1月号. KADOKAWA. p. 150-155頁.
  「バーチャルYouTuber」『ピクシブ百科事典』 https://dic.pixiv.net/a/バーチャルYouTuber
  「SCP-040-JP」『ピクシブ百科事典』 https://dic.pixiv.net/a/SCP-040-JP
  戸田山和久(2016)『恐怖の哲学』、NHK出版、p305-307
  Vox, Valentine、清水重夫訳(2002)『唇が動くのがわかるよ』、アイシーメディックス、p88
  ササキバラゴウ(2004)『「美少女」の現代史』、講談社、p150-151
  戸田山和久、前掲、p221-223
  IQ上位2%大学生がバーチャルユーチューバーを徹底解説!【雨下カイト】https://www.youtube.com/watch?v=szbYi4xF3xw
  戸田山和久、前掲、p155
  戸田山和久、前掲、p334-337

AIの出した被害に対する、理想的な法対応を考えてみた

原題
「自律型人工エージェントの出した被害に対する厳格な無過失責任主義の適用と保険の利用」

前置き
 本論考で想定するAIのレベルは、「人間と同等な汎用性を獲得するまで」とする。人間と同等な汎用性を獲得した場合、かつての女性や黒人のように、経済的合理性からAIに法人格が与えられる可能性が高いからである。



 AIやロボット工学の発展が著しいが、その恩恵を社会が享受するためには、自律的人工エージェントが法を犯したり危害を与えたりする状況に対処する必要がある。たとえば自動ドローンや自動運転車、他のアプリケーションの操作のように、AIやロボットを、人間の監視なく、インターネットや物理世界で巡回、行動させたいならば、個人や所有物へ与えるかもしれない危害についての責任を管理できなければならない。

 しかし、ある損害行為が故意か過失かどうかは、行為主体が人間であっても判別困難である。
 たとえばNHKの勧誘員に「あなたには契約義務がある」と言われて契約し、後日契約義務がなかったことが判明しても、契約義務がないことをその勧誘員が知っているかどうかを立証することはほぼ不可能である。
また、未成年者が責任無能力者であるかどうかの判断も、線引きが個々の事例ごとに決まる。
 さらに、AIは設計段階で制御不可能性や不透明性をもち、近因(危険の予見可能性)があったことを証明することが困難である。
はたして人間とはまったく異なった方法で発生したAIについて、人間が故意、過失、責任を恣意性なく判断できるのだろうか?

 そもそもの話として、AIやロボットは法的主体たり得るのだろうか。たとえば、不良なソフトウェアを開発者が消去しても開発者は批判されないが、「開発者とソフトウェア」を「親と子」や「雇用者と被雇用者」に置き換えたら批判されるだろう。つまり、ソフトウェアには生存権は社会的に認められない。
 また、子や被雇用者においてさえ、それが第三者に与えた損害を賠償するのは親や雇用者である。少なくともAIやロボットが私的所有物であるかぎりは、その監督責任は人間にある。複雑性や自律性に関係なく、所有物によって発生したものは利益も損失も所有者のものなのである。

 よしんば、AIやロボットが所有物であるとするならば、所有権を移転可能な財ということでもあり、製造物と使用者が異なるケースを想定しなければならない。
 高度な技術によって構成された財の生産については、現行法において、いくつかの規制方法がある。ここでは製造物責任法医薬品医療機器等法を挙げる。製造物責任については飛行機の設計図にも適用されたことがあり、すべての無体物に適用されうるものである。
 製造物責任法は、無過失責任(行為者が違法な結果を認識・予見できたことを被害者が証明する必要がない)ではある。しかし、開発危険の抗弁(製造物をその製造業者等が引き渡した時における最高水準の科学・技術の知見では欠陥を発見できなかった場合は免責される)を認めている。たとえば「自動運転車がカンガルーを避けられない」といったような、「間違いなくAIの誤判断であるが、その誤判断を起こさないよう修正することは困難」という事例は免責対象になってしまう。
 医薬品医療機器等法において、製造物は国から承認される必要があり、承認されるまでの過程で平均9年2か月、9億円弱を治験に費やすことになる。
 開発危険の抗弁を認めて免責事例を許容するか、国家による承認を得るための時間と費用を開発者が負担するか、というジレンマがあると言えるだろう。

 これを解決する方法としては、「契約した水準を満たさなかった場合は必ず賠償する」という厳格な無過失責任主義の適用が考えられる。
 実は現行法でも厳格に無過失責任の規定がある。動物占有者の責任(民法第718条)である。

 こう提案すると、「たしかに、道徳的判断力か有感性のいずれかを欠いているという点で、動物とAIは似ている。しかし、道徳的判断力を欠くことと、有感性を欠くことは質的にことなるのではないか?」という反論が考えられるだろう。

 しかし、技術発展の帰結としては、ニューラルネットワークが人間の判断力の構造的模倣であるように、人間の情動や意識も構造的に模倣することで、AIを道徳的判断力と有感性を兼ね備えた存在にすることが可能である。たとえば、原始的な脳の判断による身体反応をレジスタすることで外的対象との中核的関係主題を表象したり(ダマシオ「身体化された評価理論」)、中間的な表象をワーキングメモリに飛ばしたり(プリンツAIR理論」)といったことは、「ニューラルネットワークにおけるユニットの配置」として再現することが可能である。

「もし有感性についてちがいはなくせるとしても、複製可能であったり、その道徳的判断力から多大な財の管理を委託可能であったりすることについては、AIと動物は異なるのではないか? 厳格な無過失責任主義にしたら、責任者が賠償金を負担できないケースが多発するのではないか?」という反論にはこう答えたい。

「多大な損害が稀に起こる」というリスクは保険によって分散することができる。実際、保険会社は「ペット賠償責任特約」や「国内PL保険」などの商品をすでに販売している。よって、厳格な無過失責任主義化によるリスクや、AIの誤作動によるリスクにも対応できる保険商品が販売されない理由がない。

 そして、自律型人工エージェントに厳格な無過失責任主義を適用し、損害賠償リスクを保険で分散することは社会に様々な利益をもたらす。
 まず、保険会社は厳格な尺度で安全性を測定し保険料を算出するため、開発会社にはAIの安全性を高めるインセンティブ、保険会社にはAIの安全性の測定技術を開発するインセンティブが生まれる。
 また、国家による規制を最小化できるため、国家や市場ごとにかかっていた規制対策の時間と費用も減少し、開発・リリースのサイクルの加速や、小規模な企業による参入の促進が期待できる。
 そしてなによりも、「AIの引き起こした損害について賠償されないのではないか」という顧客や第三者の不安の軽減される。

 さらに喜ばしいことに、厳格な無過失責任主義の適用と保険の利用は、複雑性を持ち、移転可能なすべての財に応用することができる。
 たとえば医薬品においては、高価な保険料を負担できる顧客に迅速に新薬を提供できるし、適切な量の治験を行うインセンティブは保険料減少を目的として維持される。
 また、保険に加入する主体が誰であろうとも、消費税と同じで、サービスの受け手が保険料を最終的に負担することに変わりない。よって、法解釈が製造物責任になろうと使用者責任になろうと、対応することができる。

参考文献
平野晋(2017)『ロボット法-AIとヒトの共生に向けて』弘文堂

戸田山和久(2016)『恐怖の哲学』NHK出版