薩摩和菓子の考察記録

薩摩和菓子(@satsumawagashi)が考察したことを置いておく場所です。

「無限ハグ」の起源は「忍法・夢幻泡影」だった!?

プリティーリズム』とは、タカラトミーシンソフィアが共同開発したアーケードゲームをもとにしたアニメシリーズである。『プリティーリズム』は、ダンス・歌・ファッションが三位一体となった架空のアイスダンス競技「プリズムショー」を題材としている。その「プリズムショー」のなかで最も重要視されるのが、時として物理法則をも超越可能なジャンプ「プリズムジャンプ」である。その「プリズムジャンプ」のなかでも卓越した視覚的インパクトを誇るのが「無限ハグ」と「無限ハグ・エターナル」であり、どちらも名称に「無限ハグ」を冠しているものの、その描写は大きく異なる。

 無限ハグは「無数の分身を飛ばし、すべての観客にハグする」であるのに対し、無限ハグ・エターナルは「宇宙をバッグに巨大化し、地球を両腕で抱きしめる」と、旧劇場版『エヴァンゲリオン』の綾波レイを彷彿とさせるような描写になっている。
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 なぜこのような違いが生まれるのか。一般的な説明としては以下のようなものが考えられる。

 「無限ハグ」はそもそも、男子プリズムショーのレベルの高さを表現するためのプリズムジャンプである。だから、女性でも飛べる「無限ハグ・エターナル」はあくまで「無限ハグ」の簡易版であり、描写が異なる。「無限ハグ・エターナル」が「無限ハグ」を冠しているのは、ショウが春音あいらに「無限ハグ」として指導した結果だから。

 たしかに女性キャラは「無限ハグ・エターナル」のほうしか飛んでいない。しかし、男性プリズムスターが「無限ハグ」のほうしか飛ばないわけではない。如月ルヰは、速水ヒロの直前のショーで「オーロラライジング」に続けて「無限ハグ・エターナル」を披露しているのだ。ヒロの好敵手として演出されるなかで、である。
 また、プリリズにおいてもキンプリにおいても、「無限ハグ・エターナル」のほうが作品の終盤で披露されており、「物語をクライマックスへ導く」という役割を担っている。はたして、ただの簡易版にそのような役割が務まるだろうか。
「簡易版」説ではこれらの現象を説明できないのである。

 両者の演出の違いを男女の力量差だけでは説明できない。そこで私は「無限ハグ」という名称自体に注目した。「無限ハグ」をすべて熟語で表現すると「無限抱擁」になる。また、「無限抱擁」は仏語「夢幻泡影」(むげんほうよう)の当て字である。そして、山田風太郎の『くノ一忍法帖』(初版1961年)には「無限抱擁」という当て字とともに「忍法・夢幻泡影」という信濃忍法が登場するのだ。その描写を見てみよう。

美しい銀灰の泡は、かぎりなく女陰から盛りあがり、風にとぶ。風のなかにそれはちぎれて、一つずつ子宮のかたちにふくれあがり、幾十幾百となくもつれあい、薄明に蒼い虹を回しつつ、音もなく野面をながれた。それと黒鍬者が相ふれたとみるまに、彼らはその巨大な泡につつまれ、泡のなかで、首をおりまげ、手足をぎゅっとちぢめてうごかなくなってしまう。まるで、子宮の中の胎児そっくりに。

山田風太郎くノ一忍法帖角川書店、2003、p280)
 

ーーこれはのちの話であるが、彼らの知能、運動能力が完全に回復するまでに約十日を要した。(中略)そして、ようやく以前の記憶がよみがえるようになっても、千姫屋敷に乱入した瞬間以後の記憶は完全に失われていた。

(同上、p179)

「忍法・夢幻泡影」とは「股間から無数の泡を飛ばし、泡をすべての敵に接触させる。泡に触れた相手は胎児レベルにまで退行し、約十日後に回復するが、術に関係する記憶は失われる」という忍法である。ninpo.png

 一対多であること、相手を放心させることも含めて、「無限ハグ」の描写とあまりに酷似している。

 そして、ここが重要なのだが、「忍法・夢幻泡影」を使う女忍者・お由比が秀頼の子を出産し、失血で死ぬ直前に放った忍法(忍法名を明らかにする前に術者が事切れたため、便宜的に「忍法・夢幻泡影・絶」と呼称する)はこのように描写されているのである。
 

鞠みたいな姿勢でおよいでいった鼓隼人が女忍者の腹部にあたまをめりこませたのだ。一個の成熟胎児を出したばかりの子宮は、すっぽりとその頭部を呑んだ。ふたりはその奇怪な構図でしばらく立っていたが、やがて女忍者がからだを横ねじりにして、徐々に石戸の上にたおれた。それでも、隼人の頭ははなれなかった。彼の鼻口は血塊と羊水につまり、その頸にやわらかい子宮筋と子宮粘膜がまといついた。そして、胎児そっくりにぎゅっと手足をちぢめた鼓隼人は、この子宮のなかで、曾てこの剽悍児がみせたことのない、円満具足の死微笑をうかべて絶息した。(同上、p285-286)



 こちらは「誘惑した相手の頭を子宮で呑み込み、窒息死させる」という忍法である。同じ胎内回帰をモチーフとした忍法でありながら、一対一、相手を絶命させる、と効果が大きく異なる。
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 そして、相手を道連れに絶命した女忍者の浮かべた表情の表現が「無限抱擁の母性の笑いに似た笑顔」(p286)なのである。

 もちろん、「忍法・夢幻泡影・絶」から「無限ハグ・エターナル」を直接導くのは性急にすぎるだろう。やはり旧劇場版『エヴァンゲリオン』からの影響を無視することはできない。しかし、当の旧劇場版『エヴァンゲリオン』の描写自体が「忍法・夢幻泡影・絶」の影響を受けていると考えられる理由がふたつある。
 ひとつは、『くノ一忍法帖』を原作とした映画が1964年(東映版)と1991年(オリジナルビデオ版)に公開されていることだ。日本の特撮作品への造詣が深い庵野秀明監督が、これらのいずれか、もしくは両方を見ていることは十分に考えられる。
 もうひとつは、名前が「夢幻泡影」の当て字である楽曲「無限抱擁」(作詞・及川眠子)の存在だ。これは『エヴァンゲリオン』のTVシリーズのサントラに収録された、本編未使用のイメージソングである。「命はただ儚くて」「悲しみは(中略)忘れていかれること」「永遠を手に入れたくて女は魔物になる」など、抽象的な歌詞だが、「歴史の影で使い捨てられる存在である女忍者が、徳川家の追手を殺めてまで豊臣秀頼の子を生もうとした」という『くノ一忍法帖』の筋書きと対応させて読むこともできる。実は、当て字「無限抱擁」を使う作品にはもうひとつ、瀧井孝作の小説『無限抱擁』(初版1927年)があるのだが、そのヒロインである松子は魔性の女としては描かれていないし、「巨大化して月を抱きしめる綾波レイ」と青春小説『無限抱擁』の間にはあまりにも飛躍がある。念のため「月」で本文検索をかけたが、「暦として月」の用法しかなく、「天体としての月」の描写自体が『無限抱擁』には存在しなかった。
 よって、「忍法・夢幻泡影・絶」は、旧劇場版『エヴァンゲリオン』を経由して、「無限ハグ・エターナル」に影響を与えたのではないだろうか。
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「忍法・夢幻泡影」起源説にのっとれば、春音あいら、ショウ、天羽ジュネ、如月ルヰの飛んだプリズムジャンプが「無限ハグ・エターナル」であった演出上の理由も説明できる。
 無限ハグ・エターナルは、幸せの絶頂の表現であると同時に、プリズムスターとしてやり残したことはない、という悟りの境地を示している。それを飛ぶことは、プリズムスターを続ける理由の喪失を意味するのだ。
 実際、物語の終幕では、春音あいらとショウはともに日本を去り、天羽ジュネは法月聖とともにあるために能力と記憶を失い、如月ルヰはシュワルツローズの主催者でなくなった法月仁に寄り添うのだ。それは、秀頼の子を千姫に託したため、胎児のために生きるという使命がなくなり、敵を道連れに死ぬ選択をしたお由比と重ならないだろうか。

 ながながと論述してきたが、『プリティーリズム』シリーズも『キング・オブ・プリズム』も『くノ一忍法帖』も掛け値なしに名作であることは、この仮説の真偽にかかわらず、ゆるぎない事実である。
 そして、この文章の読者にはアニメファンが多いだろうが、ぜひとも『くノ一忍法帖』を読んでいただきたい。戦国大名たちの思惑のなかで消費される忍者たちの闘争を描いた『忍法帖』シリーズ。ちょうど2018年1月から『バジリスク〜桜花忍法帖〜』が放送されることからも、その人気が衰えていないことがわかるだろう。そのシリーズのなかでも、『くノ一忍法帖』は異色作であると同時に、山田風太郎本人も認める傑作中の傑作である。「登場する5人の女忍者はすべて妊婦」「女(母親)同士の固い絆」「対する5人の伊賀忍者も忍法はすべて下ネタ」「徳川家の歴史的逸話を忍者の闘争の結果として再解釈」「山田風太郎本人が医師免許を持っていることによるトンデモ生理学」と、娯楽小説としての見どころが目白押しなのだ。