薩摩和菓子の考察記録

薩摩和菓子(@satsumawagashi)が考察したことを置いておく場所です。

まどか悪妻論――まどかにさよなら

0. 警告――もう何も怖くない

まどマギ』は監督:新房昭之、脚本:虚淵玄、キャラクター原案:蒼樹うめ、という全く方向性の異なるスタッフが作り上げた魔法少女アニメである。そこでは魔法少女モノのテンプレから外れたハードな展開と、魔法少女モノの醍醐味である自己犠牲が両立した稀有な作品となり、大きな衝撃をアニメファンにもたらした。
まどマギ』はほむらとまどかの二者関係が主軸となる作品である。多くの論者が『まどマギ』について語る際、ほむらの失敗に焦点があてられる。それは『叛逆』がほむらの視点で進行し、最後に万能の力を得ながらも執念に囚われた姿が描かれるからだ。しかしこれらの事実はほむらが不幸であることの証明になっても、この結末がどちらに起因するかの証明にはならない。
 本論考では、ほむらとまどかの出会いから別れまでのすれ違いを『TV版』から順を追って検証し、ほむらは一貫してまどかとの二者関係の構築を目指していたこと、そしてまどかはほむらの期待に応えようとしなかったことを確認する。そこからまどかはなぜ最愛の隣人であるほむら以外の他者のために魔法少女になってしまうのか、その逸脱を坂口安吾のエッセイを足がかりに言語化し、『叛逆』におけるほむらの選択はほむらがまどかにアプローチする唯一の方法だったこと、そしてほむらの選択から必然的に導かれる今後の展開を素描する。最後に『まどマギ』という物語におけるまどかのあり方と、「オタク文化」という産業におけるキャラのあり方に相似を見出し、『まどマギ』の受容者がまどかの人格について言及しないのはキャラを受容する際のオタク的行動類型に起因するのではないか、と問題提起する。

1. TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』――出会いから別れまで

 まず、ほむらが転入し、まどかと初めて出会った時、既にまどかは魔法少女になっていた。非常に自尊心に満ち溢れており、ほむらはそこからまどかに対する憧れを募らせていく。後にまどかが魔法少女であることを知るも、それはまどかが高い利他性を持つからであって、自尊心の高さはまどかが魔法少女になったことが原因だとは思わなかったのである。そしてワルプルギスの夜との戦いの中でまどかは戦死する。この時のほむらの願いは「まどかとの出会いをやり直したい」。「魔女を倒す」でも「まどかを救う」でもない、ただ一緒にいられる時間を増やしたかったのだ。そしてほむらは魔法少女となり、ワルプルギスの夜との戦闘を二人で生き残る為にまどかと共闘するが、ワルプルギスの夜を倒した後にまどかは魔女化してしまい、ほむらは魔女が魔法少女の未来の姿であることに気付く。その後何度もまどかと共闘するが、必ずまどかは魔女化してしまう。それをほむらはまどかに伝え、共に魔女として一緒にい続けることを提案するが、まどかは自身が魔法少女にならない世界の構築をほむらに託す。まどかはほむらの感情よりも一般市民の安全を採ったのだ。まどかの願いを聞き届けたほむらはまどかと一緒にいる暇もなく戦い続け、まどかに魔法少女になることを禁じ続けるが、その甲斐もなくまどかは世界を救う為に自分の命を捧げて魔法少女になってしまう。まどかは世界を救う為ならほむらの制止を無視するのだ。第11話の時点で、ほむらの願いは「まどかを救う」にすり替わってしまっている。もうほむらの願いの中にほむらはいない。この時点でほむらの不幸は確定していたのだ。そして最終回、まどかはまたもほむらの制止を無視し「全ての魔女を生まれる前に消しさりたい」という願いをキュゥべえに告げる。まどかは、全魔法少女を救う願いは魔法少女であるほむらも救えると思ったのであろう。もちろんそのような願いはほむらを救わない。むしろまどかの願いは結果としてまどかの人間としての消失を意味し、時間を巻き戻してもほむらと出会えない存在になってしまう。ほむらは概念化する途中のまどかと話をするが、そこでもほむらは「最高の友達」と呼ばれ、全存在をもってして応えるべき存在としては評価されない。まどかに因果律をもねじまげるだけの魔力係数(注:一国の女王や救世主、そしてまどかが高いとされることから、それが他者の期待の総量と同義であることがわかる)を与えたのは他ならぬほむらなのに、である。他にも、まどかが概念化した後、まどかがほむらに声援を送っている描写があるが、他の魔法少女にも救済の際に同じようなことを言っているのだ。
 ここまでが『TV版』の経緯である。ほむらは二人の時間を確保する為に尽力するが、まどかはほむらの願いを無視して自己犠牲し続けている。次に『叛逆』をみてみよう。

2. 『魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』――再開、そして離反

『叛逆』は『TV版』に対する完全新作アニメ映画である。映画の前半を占める「ほむら結界」の中ではアニメーターの手書きと劇団イヌカレーのコラージュが分離不能なまでに渾然一体となっており、今までの魔女結界との違いを際立たせている。
 『TV版』で完全に終結した物語がファンの期待を背負って本作で再起動したが、そこで観客に提示されたのは「残された主人公であるほむらは救済されえない」という事実だった。まどかとほむらの二者関係において『叛逆』は『TV版』の再確認の側面が強いため、『TV版』より手早くまとめたい。
「ほむら結界」にてまどかに「魔獣の世界」について話した時、まどかは「自分はそんな自己犠牲なんて出来ない」と返すが、そこにほむらが悲しむという視点はない。無論まどかの回答は、ほむらが人間としてのまどかを必要としていることを表現出来ないほむらの不器用さにも起因するが、それにしてもあんまりである。そもそもまどかは現実で頑なに自己犠牲を貫いたのだし、この回答からはまどかが自己分析を出来ていないという結論を導き出すのが妥当だろう。その後キュゥべえの解説によりまどかから記憶を抜けば人間としてのまどかを手に入れられることを知り、他の魔法少女たちの手引きでキュウべえのシールドから脱出する。すでに「半魔女状態」にあったほむらはまどかの救済を拒否、〈愛〉の力でまどかの記憶と世界改変能力を奪取し、まどかと対立する悪魔として生き続けることを決意した。

3. 『鹿目まどか精神分析』――鹿目まどかとの性愛の不可能性について

まどマギ』における性愛の不可能性は、もちろんほむらの説明不足もあるが、それ以上にまどかの人格に起因している。まどかはほむらの想定する二者関係のモデル、一対一の性愛関係から逸脱したのだ。本論考ではまどかに言及する際に、女性の肯定的なステレオタイプとして頻用される「悪女」でも「娼婦」でも「聖母」でもなく「悪妻」という概念を提唱したい。それは「悪妻」が「本来ある一人の全存在を懸けた求愛に、女性は全存在をもってして答えるべき」という規範(貞淑主義)に「無自覚に他者を愛する」という形で逸脱しているからである。
 さて、日本において貞淑主義の崩壊、虚構性を戦後、真っ先に指摘した人物がいた。それが坂口安吾である。安吾は1946年に『白痴』『堕落論』を発表し、道徳が反自然的な幻想だと批判した。(坂口安吾(1946)『堕落論青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42868_27482.html 「この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。」)本論考ではその翌年に発表された『悪妻論』 を用い、まどかの逸脱を理解する手掛かりとしたい。(坂口安吾(1947)『悪妻論』青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html 以下「*」が付く鍵括弧内は同文章からの引用である)
 20世紀初頭から戦争終結にかけて、「家」制度に背く恋愛表現や、銃後の女性(特に未亡人)の性への言及は禁じられるものとなり、その流れは純文学にも及びんだ。 貞淑主義が全ての階級を席巻したのである。それは本国を離れる男性たちに置いていく妻の貞淑を国家が保証しなくてはならなくなったからであるが、そのような女性像は「ニセモノ」ではないか、という問いかけが『悪妻論』である。
『悪妻論』は「悪妻には一般的な型はない*」という例として、愛妻家(今の表現では「恐妻家」の方が適切であろう)の平野謙への言及から始まる。平野が妻にどれほど困らされても、それは妻との相性を受け入れたからであり、「人間的な省察*」があるからだと賞賛する。そこから「女大学の訓練を受けたモハンの女房*」は「世界一の女房であつても、まさしく男がパリジャンヌを必要とする女房*」であり、「日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の型の方を良妻也と断ずる。*」それは「人の心は姦淫を犯すのが自然で、人の心が思ひあたはぬ何物もない*」のに、「夫婦となり、姦淫するなかれ*」という「無理を重ねながら、平安だつたら、その平安はニセモノで、間に合はせの安物にきまつてゐる*」ということである。そして「悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見*」こそが「近代の発見*」であると、夫婦が平和でないことを肯定する。浮気をする悪妻は貞淑という虚構に疑問を持つ知性を持っているから良い、という主張だ。しかし『悪妻論』で安吾は上記の悪妻の定義に収まらない悪妻にも論じている。それが「知性なき悪妻*」 (「多情淫奔、たゞ動物の本能だけの悪妻*」)であるが、この悪妻に関しても「多情淫奔の性によつて魅力でもありうるので*」「魅力によつて人の心をひくうちは、悪妻ではなく、良妻だ*」と肯定する。安吾にとって全く肯定出来ないのは「魅力のない女*」である。「学問はあるかも知れぬが、知性がゼロ*」な女性は「野蛮人、原始人、非文化人と異らぬ*」と切り捨てる。『悪妻論』の最後は、夫婦関係によってもたらされる苦しみは知性の苦しみであり、糾弾されるべき野蛮な苦しみは戦争の苦しみである、という平野への呼びかけの言葉で〆られる。
 本論考において「知性」とは「性愛という二者関係からの逸脱に対する自覚」であり、まどかにはそれが欠けている。そういう意味において、まどかは「知性なき悪妻」である。『悪妻論』における該当部分を読み解くと、「悪妻(不倫ばかりする妻)の持つ価値とは、それが全ての男性に所有されうることである」とも拡大解釈出来るだろう。このような性質を持つからこそ、あまり魅力的でない男性でも「悪妻」を妻に出来るし、その男性はいつ「悪妻」が他の男性に奪われてしまうか不安にさせられてしまう。そういう意味ではまどかは理想的な「悪妻」であろう。遍在可能だから、全ての魔法少女の一生に付き添うことが出来る。しかしまどかのような存在にとって、ある一人の魔法少女の一生に付き添うことは〈愛〉と呼べるのだろうか。そのためにまどかは何か代償を払ったのか。否、まどかはどの魔法少女も特別視していない。そしてまどかはこのような存在になることを望んだのである。なぜか。結論から言うと、まどかは一人の人間を〈愛〉せない、一対一の性愛を営めないからだ。
 まどかの描く自己像は非常に空虚だ。魔法少女になっていない時のまどかは「私なんか」が口癖で、まどかを肯定する他者の意見を信じられない。『TV版』第10話冒頭でほむらと初めて会った時の、魔法少女として契約していた状態ではその自己否定が隠蔽されていただけだった。そんなまどかが自己を肯定するための唯一の回路が「より多くの期待に応える」ことである。まどかは他者の期待を自身の願望として内面化することでしか願望を持てない。そして期待の眼差しを向けてくれるのであれば、それが誰であろうと構わないのだ。だからキュゥべえの勧誘に必ず応じる。まどかは自身の主観で他者の価値を決められない、ありのままの他者に主体的に向き合えないからである。もちろんこれだけなら目の前の人間を助けるために命を惜しまない衛宮士郎のような「自己犠牲野朗」といった類型が存在するが、まどかの場合はその自覚もなく、規模も桁違いだった。古今東西、未来も含めて全ての魔法少女を救済しようとしたのである。
まどかは「博愛主義者」なのである。まどかが一人より全員を愛するのは、人格の全体性に向き合うことから逃げているからである。例えばあるネトウヨが「日本人は素晴らしい」と一億二千万人を称賛出来るのは、その一億二千万人の中から理想の日本人像を抽出し、その日本人像を称賛しているからである。彼は決して「目の前にいる、ある日本人は素晴らしい」とは言わない。個人としての日本人が内包する「不純物」と向き合えないからである。同様のことがまどかにも言えるだろう。まどかは「全ての魔法少女を救いたい」と言った。魔法少女を愛することは、自らのアイデンティティという『現実』に無自覚であるために、まどか自身が選択した一つの身振りにほかならないのだ。この時まどかが救いたいのはまどかの思い描く自己犠牲的な魔法少女像であり、それ故に一魔法少女のほむらが持つまどかへの〈愛〉を無自覚に否定しているのである。なんという暴力。なんという無自覚。概念化したまどかはほむらのことがわかったと言いながらも、ほむらの独占欲に向き合うつもりはさらさらない。まどかとの性愛は常に否定されるものとしてあった。ほむらの失敗はまどかに思慕してしまったこと自体から始まっていたのだ。そして、その失敗は命をもってしても肯定出来ない。どうせほむらが自殺しても、まどかはあの独善的な救済を施すだけで良しとするであろうから。

4. 『魔法少女まどか☆マギカ [続編] 断罪の物語』――「神」対「悪魔」

 これまでの議論から、予定されている次回作でどのような対話が行われるか大体予測できる。簡潔にSSで説明しよう。

ほむら「神としてのあなたは人間としてのあなたより多くの救済を世界にもたらした。それでも人間としてのあなたに接してもらうことでしか救済されない人がいるの」
まどか「どうして? 人間としての私は自信も力もなかったのに、人間としての私が救える人なんている訳がないよ」
ほむら「私がそうだからよ。そしてあなたに自信と力を与え、あなたに救済されることを期待した馬鹿な魔法少女が私よ」
まどか「ほむらちゃんは馬鹿じゃないよ。ほむらちゃんも愛する人のために魂を捧げた、立派な魔法少女だよ」
ほむら「あなたは全ての魔法少女を肯定する。でも全てを肯定するのは全てから目を背けるのと変わらないわ。私を見て、私を否定して、私を救済しないで。あなたの救済はどんな拷問よりも耐え難いわ」
まどか「そんな……。じゃあ私はどうすれば良いの?」
ほむら「〈愛〉を知ることよ。あなたは〈愛〉を知らないわ。あなたにとって〈愛〉なんて邪魔でしかないのでしょうね。一人を〈愛〉するために全魔法少女を愛することを手放したくないのだから。それでも私はあなたに〈愛〉を教えに来たの。一人を〈愛〉することがどれほど困難で、それ故にどれほど尊いか、を」

 まどかとほむらの関係はよく「秩序」対「欲望」という対立軸で語られる。それは『叛逆』終盤、力を失ったまどかにほむらが「秩序と欲望、あなたはどちらの味方?」と質問し、まどかが「秩序」だと答えると、「そう。なら私達はいずれ、そう遠くない未来に対立することになるでしょうね」とほむらは自身が「欲望」の味方だと認めるからである。しかし「欲望を最大化するために秩序を形成する」という功利主義から見れば「秩序」と「欲望」は対立しないし、二人は別に功利主義の是非で対立している訳ではない。そこで『まどマギ』における「秩序」と「欲望」を我々が日常使う言葉に翻訳することにしよう。まどかの「秩序」とはまどかが全魔法少女を愛すること。ほむらの「欲望」とはまどかがほむら一人のみを〈愛〉すること。つまり、二人は「多を愛すること」と「一を愛すること」、「博愛」と「性愛」で対立しているのである。やはり虚淵玄は自称通り「愛の戦士」だったのだ。

5. 『キャラ悪妻論』――本当の気持ちに向き合えますか

 さて、ここまでまどかがどれほど「悪妻」であるかを論じた。しかしこの「悪妻」という類型は、オタクの愛するキャラ全般に適用出来る概念なのではないか。まどかは物語レベルの「悪妻」だが、キャラは構造レベルの「悪妻」と言えないだろうか。例えばあるオタクがアニメショップでキャラグッズ(本でもキーホルダーでも抱き枕でも良い)を買う。そのグッズはそのオタクにとってかけがえない唯一の存在である。しかしそのグッズは工場のラインで大量生産された物であり、質的に同じ物が世界に遍在している。これは全てのキャラが複製可能性を持つ限り禁じようのないことだ。もしキャラから複製可能性をなくしたいならばそれを脳内から表現しなければ良いが、オタクが享受するキャラは定義の時点で既に表現されたものであり、複製可能性を持ってしまう。永遠に一オタクの占有物たりえないのである。よく、好きな作品がヒットすることを肯定する立場と否定する立場が語られるが、それは作品が「悪妻」としての価値を増すことの可否を論じているのであり、しかもそれは程度問題に過ぎない。
 ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』にて提唱した概念 を借用すると、現実の女性にはアウラがあり、接する男性もアウラを受け取るあり方を目指すが、キャラにはアウラがなく、誰もアウラを受け取ることを期待しない。
 実はこのようなオタク的行動の類型こそが、『まどマギ』について語る際にまどかに言及するのを妨害しているのではないか。つまりまどかは性愛対象としてのキャラを抽象化した存在であり、純粋な対象аであり、永遠の客体であって、主体になることはない。だからこそ、『まどか』という物語において、まどかが主人公・ほむらの性愛対象となり、そして失恋の対象になることに誰も疑問を抱けなくなっているのではないか。つまり『まどか』という作品内におけるほむらとまどかの間の断絶は、日常におけるオタクとキャラの間の断絶の反復であり、相似の関係にあるのである。
 そう考えれば、ほむらの苦悩は全オタクにとって他人事ではない。もしあなたがほむらをクレイジーサイコレズと嘲笑うことが出来るならば、それはあなたの愛するキャラが「悪妻」であることに気付いていない「幸福なオタクライフ」を送っているからだろう。
 あなたの「嫁」があなたに囁く「愛の言葉」には、本当に〈愛〉がありますか。
 あなたには「嫁」が「悪妻」であることを「近代の発見」として「享楽」する「人間的な省察」がありますか。